昭和、平成時代の河川管理現場で体験したこと

見聞きしたこと、考えたこと、出来なかったことを伝えたい

今後の水防災で考えること

 2019年の18号台風を契機に、大河川だけではなく、中小河川をどのように管理してゆくかについて考える機運が広まりつつある。 その対応策はそれぞれの地域によってさまざまであろうが、これを考えるための材料について書いてみた。

 1、自分が住んでいる土地の、水防災上の危なさを知るための第一歩

  これはだれもが知っているようで、分かっていないことが多い。水害が土砂災    害に遭うたびに、ハザードマップや危険区域図で周知しているといわれるが、これに関心のある人は少ない。

  しかし、いったん関心を持てば、情報はインターネットで容易に手に入る時代になっている。今の土地が昔はどのような場所であったかは「治水地形分類図」で検索すれば、国土地理院のサイトで簡単に手に入る。 また、氾濫の被害がどのように広がるかは、国土交通省の「洪水浸水想定区域図」が公開されている。 これらを手にしたうえで、堤防まで歩きか自転車で行くことをお勧めする。

 堤防に囲まれた地域では、洪水はどの方角から来るのか確かめる。

2、勉強会は必要だ

  高度経済成長を支えたのは様々な要因があるが、水害を軽減し、道路をまともに自動車が走れるようになり、電気が十分に供給できるようになったことが大きい。

  その時代は、治水対策は政治課題として、地方自治体の主な仕事であった。その後そこそこ堤防などが整備されるにしたがって、住民の関心は街づくりや環境、子育て、高齢者対策に向かうようになり、いつしか治水は忘れ去られてきた。 「コンクリートから人へ」という言葉に踊ったことはそう遠い出来事ではない。

 治水予算は民主党政権より前から徐々に減らされ、町役場には土木職員がいなくなり、環境職員に代わってきた。

 温暖化による気候の変化が顕著に見え始めたには、私の実感では2000年9月の東海豪雨でした。 名古屋気象台の雨量計が過去最高の2倍になっていて驚きました。

 

  

 

 

20191019城山ダム緊急放流報道、緊急放流 という言葉が誤解を生む

 20191019日の台風19号は、予想以上の被害が発生しました。各地で痛ましい出来度とでしたが、私の知る限り、ああまたここかという、低地の被災が多いことに、改めて無力感を感じました、

 

 ここでどうして、こんなに今、厄災が発生するのかについての私の見方は後日、このブログでお話ししますが、今日は、NHKを含む金太郎あめマスコミの、城山ダムについての「緊急放流」について、「緊急放流のメカニズム」が緊急放流」が(ダムの貯留能力が限界になったので、ダム湖への流入量と同じ量をダムから放流する事態になった、つまりはダムの調節能力を発揮できなくなったということで、いわばダムが無い状態に帰ったということで、緊急放流によってダムが悪さをする仕組みがないことは自明で、報道の解説でもそのように説明している。

 しかしである。この説明の後に、緊急放流で、四国肱川の野村だむ下流で死者が出たと、合わせて報道している。

 これは市真実、悪意のある報道である。 確かに肱川では緊急放流によってダム直下流で死者が出た。 しかし、死者が出た原因はダムが悪さをしたのではなく、急な降雨によって、ダムが存在しようがなかろうが、(ダムは流入量をそのままスルーパスせざるを得なかった)被害にあったのであり、ダムの存在が被害を大きくしたことには当たらないことを四国地方整備局は事故後に検証し、公表している。

 

 この事実を報道せず、緊急放流は問題ありとしている報道は、悪意のある報道といえる。

 19号の被災をみて思うことは、もう一度、自分の住んでいる地域の安全性について関心をもち、どうしたら被害を最小になるのかを、議論することである。 堤防は不完全な構造物であり、ダムやポンプはその能力以上の役割は担えず、その中で住民自らが自衛「水防」を行うほかない。 全国の水害が防止できる予算などあるはずはない。

 

 できる被害最小方策は、その地域地域で、考え、実行し続けることしかないと考える。

 

 

洪水報道 「緊急放流」は、ダムが被害を助長させている印象を与えている

 2019年10月の19号台風は、しばらくぶりに首都圏を直撃したこともあって、密度の濃い報道ぶりだ。 相模川の城山ダムが緊急放流を行うことが報道されている。

 多くの報道記者は、かっての「ダムは無駄」といった報道キャンペーンの後遺症があるらしく、洪水時にダムが放流する必要が生じたとき、ダムがさも下流に人為的な悪影響を与えているといった印象報道がこれまで多く見られ、歯がゆく思ったものだ。 

 今回の相模川の報道も、昨年の愛媛県鹿野川ダムの緊急放流で死者が出たことを合わせて紹介していることから、今回緊急放流も危険な操作が行われることをであることを想像されかねない。

 10月12日NHKの松本解説委員はフリップを作成し、ダムが放流によって下流にさも有害な操作をすると受け取られる誤解が生じないように、ダムは水をためることが大きな目的があるが、洪水時には貯留できるダムの容量に限界があり、洪水をこれ以上貯留できないとわかった時には、流入量を上回らない範囲で放流する」仕組みがあり、これを「緊急放流」と称している、流入量を上回る放流量は決してしないと云う説明があたことはこれまでにない丁寧なな解説だった。

 しかしどんな事態になっても、流入量を上回る放流を行う操作を行うことはない。

 ただ、ダムはこの状況下では洪水軽減には役に立っていない、入ってきた流量をそのままダムを通過させているということだ。その場合ゲートは開きっぱなしとなっている。

 

NHK 「中国”改革改革を支えた日本人”」を見て考えてたこと

  NHKBS放送「中国”改革改革を支えた日本人”」を見て考えた。 

 私は建設省に在職中、江沢民時代に、省内でも中国へのODAがいくつか実施されていました。私がかかわったのは「水防防止指揮プロジェクト」という、水害予報に関する通信機器の整備と運用に関する支援プロジェクトで、現地の事務所を国内から支援する委員会のメンバーとして、少しだけ中国の現状を見る機会に恵まれました。 支援メンバーは建設省から優秀な若手が数人出向し、JICAの枠組みの中で、情熱的にプロジェクト動かし、確かに中国の治水に貢献している様を直接現地で見ました。

 経済成長を遂げた今は、ODAは終了したと聞きましたが、隔世の感があります。

 放送では、戦時中の贖罪の想いを強く持った日本のリーダーが、中国の改革開放政策の技術支援に濃厚にかかわった事実を改めて再確認した機会になりました。 

   水害防止指揮プロジェクトの概要

https://www2.jica.go.jp/ja/evaluation/pdf/2003_0331215E0_4_s.pdf

 

 

 

水防活動のこと

 堤防は、破堤決壊の恐れがない「スーパー堤防」以外は常に破堤の恐れがありますが、堤防の能力を最大限の発揮させるために「水防活動」があります。 昔は地域をあげて水防団消防団)を維持していました。

 

下の写真は宮城県を流れる鳴瀬川に合流する吉田川での水防活動の様子です。  この写真の撮影のあと、残念ながら破堤したと聞いていますが、この状態でも破堤するか持ちこたえられるかという瀬戸際の写真なので、私も尊敬しながらこの写真を保存しています。

 川は今は美田に生まれ変わっている元の品井沼の上を、樋(とい)のような形状で流して、成瀬川に合流している吉田川での水防活動様子です。

 

 

 

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劣化した堤防を見分ける

 

1、 地震で 堤天に亀裂が発生した四万十川堤防

 堤防が劣化す ることは、あまり知られていません。その為もあってか、劣化を見据えた機能回復プログラムは現在設けられていません。 堤防の中を断ち割って、断面を確認する機会は少ないものですが、私は2度の経験があります。

 一度目は渡川 (現在の四万十川)に勤務していた1968年(昭和43年)日向灘地震(M7. 5)が発生した際の出来事です。 渡川は震源地と近かったので今の震度で云うと震度4程度でしたが。現場出張所から堤防天端に亀裂が起きていると知らせがあり、新米の 係長だった私は、事務所長に指導を仰ぎました。 武藤徳一所長は本省の防災課出身で、この種の対応方針を熟知されておりました。 まず亀裂が 起きた部分に石灰液を入れる、その理由は亀裂が時間とともに塞がれて、亀裂の痕跡が分からなくなるからというものでした。 次にはその箇所を掘り返し て、亀裂の長さと深さを確認すること、この状況は直轄災害の申請要件に該当することなどを教わりました。

 さて、災害申 請が認められて復旧することになって、ブルドーザーで掘削しようとしたところ、なんと堤体がぬかるみ状態になっていて湿地ブルドーザーを投入する羽目に なりました。 本川と支川後川堤防であわせて数カ所の亀裂箇所のすべてがこのような状態でした。 このときには私も知識が浅く、深く追求することを怠たりましたが、昔を知る人の話では、これらの場所は昔、池や深掘れがあって、築堤の際に堤防施工位置をずらすなど対応に苦労した場所であったことを知りました。 

 復旧工法は、亀裂部分は土を置き換え、締め固めました。  亀裂が生じた箇所の土質はシルト混じりの砂で、運搬が容易な 堤防前面の土砂を利用したものでした。

 

 2、法面が崩壊した庄内川堤防

庄内川矢田川左岸の福徳町(名古屋市市街地側)で、1990 年(平成2年)9月18日、洪水でもないのに突然堤防の裏法が崩壊し、堤防に接していた民家に崩壊した土砂が流れ込んだ出来事を紹介します。 堤防天端は今も道路として利用されている堤防上を道路が走っている場所でした。  
当時私は治水課の課長補佐、庄内川工事事務所長だった関克己さんから電話があり、原因究明をしたいとの連絡があり、土木研究所の久楽勝行土質研究室長にお願いして現地に向 かった。久楽室長は堤防の安全性についてのご研究を続けられていて、私たちがいつも頼みにさせていただいていた研究者であられた。

久楽土質研究室長の調査結果は意外なものでした。 堤防土質は庄内川が運んできた土で出来たシルト交じり砂であったが、堤防天端の轍堀れに亀裂が出来て、 ここへ雨水が集まり、ちょうど漏斗状になって堤防内部に永年、浸透していた。 この土質は砂成分が水を通し、シルト成分が侵入してきた水を抱き貯めたもので、 均衡が破れて崩壊に至ったものと判明した。 堤防地盤も難透水性であったことも、この現象に寄与したものであったらしい。


 3、2件の事例から見た、劣化した堤防の類似性   

2件の事例から、私は雨水が浸透しやすい砂と、水分を補足しやすいシルトとの組み合わせの土質が堤防劣化に寄与したと考えました。 堤体土 質、地盤の履歴(堤防設置以前の地形など)と土質、雨水が浸透する条件などは少なくとも、劣化する堤防、劣化しない堤防の判断材料になるものと考えるので、これらのデータが蓄積し、検索できる体制が作られれば、少なくとも、注意する堤防が特定できるのではないかと考えたのです。 このデータ化はまだ未完成です。私はこのシステムの構築を完成できないまま退職になってしまいました。

 この種のデータベースを構築、運営するのは、息の長い取り組みが必要です。問題への理解が広がることがまず必要です。

 私は力不足で完成できませんでしたが、今後の技術者、研究者の出現を期待しています。。 
                    

 1、 地震で 堤天に亀裂が発生した四万十川堤防

 堤防が劣化す ることは、あまり知られていません。その為もあってか、劣化を見据えた機能回復プログラムは現在設けられていません。 堤防の中を断ち割って、断面を確認する機会は少ないものですが、私は2度の経験があります。

 一度目は渡川 (現在の四万十川)に勤務していた1968年(昭和43年)日向灘地震(M7. 5)が発生した際の出来事です。 渡川は震源地と近かったので今の震度で云うと震度4程度でしたが。現場出張所から堤防天端に亀裂が起きていると知らせがあり、新米の 係長だった私は、事務所長に指導を仰ぎました。 武藤徳一所長は本省の防災課出身で、この種の対応方針を熟知されておりました。 まず亀裂が 起きた部分に石灰液を入れる、その理由は亀裂が時間とともに塞がれて、亀裂の痕跡が分からなくなるからというものでした。 次にはその箇所を掘り返し て、亀裂の長さと深さを確認すること、この状況は直轄災害の申請要件に該当することなどを教わりました。

 さて、災害申 請が認められて復旧することになって、ブルドーザーで掘削しようとしたところ、なんと堤体がぬかるみ状態になっていて湿地ブルドーザーを投入する羽目に なりました。 本川と支川後川堤防であわせて数カ所の亀裂箇所のすべてがこのような状態でした。 このときには私も知識が浅く、深く追求することを怠たりましたが、昔を知る人の話では、これらの場所は昔、池や深掘れがあって、築堤の際に堤防施工位置をずらすなど対応に苦労した場所であったことを知りました。 

 復旧工法は、亀裂部分は土を置き換え、締め固めました。  亀裂が生じた箇所の土質はシルト混じりの砂で、運搬が容易な 堤防前面の土砂を利用したものでした。

 

 2、法面が崩壊した庄内川堤防

庄内川矢田川左岸の福徳町(名古屋市市街地側)で、1990 年(平成2年)9月18日、洪水でもないのに突然堤防の裏法が崩壊し、堤防に接していた民家に崩壊した土砂が流れ込んだ出来事を紹介します。 堤防天端は今も道路として利用されている堤防上を道路が走っている場所でした。  

当時私は治水課の課長補佐、庄内川工事事務所長だった関克己さんから電話があり、原因究明をしたいとの連絡があり、土木研究所の久楽勝行土質研究室長にお願いして現地に向 かった。久楽室長は堤防の安全性についてのご研究を続けられていて、私たちがいつも頼みにさせていただいていた研究者であられた。

久楽土質研究室長の調査結果は意外なものでした。 堤防土質は庄内川が運んできた土で出来たシルト交じり砂であったが、堤防天端の轍堀れに亀裂が出来て、 ここへ雨水が集まり、ちょうど漏斗状になって堤防内部に永年、浸透していた。 この土質は砂成分が水を通し、シルト成分が侵入してきた水を抱き貯めたもので、 均衡が破れて崩壊に至ったものと判明した。 堤防地盤も難透水性であったことも、この現象に寄与したものであったらしい。


 3、2件の事例から見た、劣化した堤防の類似性   

2件の事例から、私は雨水が浸透しやすい砂と、水分を補足しやすいシルトとの組み合わせの土質が堤防劣化に寄与したと考えました。 堤体土 質、地盤の履歴(堤防設置以前の地形など)と土質、雨水が浸透する条件などは少なくとも、劣化する堤防、劣化しない堤防の判断材料になるものと考えるので、これらのデータが蓄積し、検索できる体制が作られれば、少なくとも、注意する堤防が特定できるのではないかと考えたのです。 このデータ化はまだ未完成です。私はこのシステムの構築を完成できないまま退職になってしまいました。

 この種のデータベースを構築、運営するのは、息の長い取り組みが必要です。問題への理解が広がることがまず必要です。

 私は力不足で完成できないままになっていますが、今後の技術者、研究者の出現を期待して、このリポートを書いています。 
                    

破堤の現場

破堤寸前の現場

 昭和29年(1954)9月の12号台風洪水で、四国、徳島、吉野川堤防の破堤をかろうじてま逃れた現場にいました。 私は当時中学生でした。

 好奇心に駆られ堤防に到着した時、多くの水防団員は殺気立って、懸命に土俵を裏法の小段に積み上げる作業をしていました。 堤防はすでに水圧で膨らんでいて、ぶよぶろの状態でした、そこへ土俵を積み上げていました。土俵を積み上げていった場所は、堤防が締まった状態になり、効果があることがわかりました。

 河川管理の仕事を経験出来た今、当時を思い出して思うことは、いつ破堤してもおかしくない状態を見たのだと思います。

 そのとき上流の堤防を見ると、通信のために立ててあった電柱が次第に倒れてゆく(浮き上がって)のが見えました。洪水の水位が高くなり、その継続時間が永く続くと、堤防が膨れあがり、ついには破堤になる様の一歩手前を見たことになります。後で考えると、私が現場に着いたときは洪水のピーク付近らしく、水位が下がって来て喜んでいましたが、対岸が破堤したので下がったのではないかなどと話し合っていましたが、後でわかったことは、水防活動中が洪水のピークで、その後は次第に水位が下がったので、かろうじて破堤をま逃れたのだとわかりました。

 写真はこの洪水のあと、堤防裏法尻近くに空いた漏水跡の写真で、いたるところにこのような跡が見られたと多くの人から聞きました。

 土俵づくりに使った土は、私たちの中学校の校庭を掘ったもので、大きい掘削跡は卒業までは埋まらなかったことを思い出します。