昭和、平成時代の河川管理現場で体験したこと

見聞きしたこと、考えたこと、出来なかったことを伝えたい

日本の堤防のほとんどは、構造体 としては作られていない

被災のたびごとに拡張してきた歴史的建造物
 家屋や橋梁などの人工工作物のほとんどは、その構造体に対して安全を保障する設計基準があり、これに対応できる構造物が設置されています。

 堤防も人工構造物なので、堤防がどの程度の外力(洪水の規模など)なら一定の安全を保障する設計目標に従い堤防を作っていると一般には思われています。 しかし有史以来、補強やかさ上げを断続的行って現在の堤防が形作られた我が国の一般的な堤防は、そのほとんどが、設計目標を設定して建設した 構造体 として作られていないのです。 構造体として全国の堤防を再構築する力がいままでの日本にはなったのです。

 プロである河川管理を仕事にしている技術者でも、この事実をつい忘れがちです。

 

ダムは構造体として建設されている

 下の図は、河川砂防技術基準(案)の第2章ダムの設計にある図です。 「均一 型フィルダム」は、土質や粒子を選択して設計するものです。ダムの底にはカー テングラウトがなされて、 河表からの水圧で浸透水が抜けない構造担っています。 また、浸透水の状態を観測する機器も備えています。
 「ゾーン型フィルダム」や「表面遮水壁型フィルダム」などの種類はありますが、いずれも構造体として設計しているダムで、材料や施工方法を含めて、構造 体としての情報は。明らかになっています。

 

では、堤防はどのように作られているのか

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 このブログの「堤防という構造物を知ろ1)」で、堤防は太古の昔から作られ始めた構造物であることは紹介しました。

 

ほとんどの堤防は、築造履歴が分かっていません。 施工年次は近年のものは分かりますが、それでもその堤防のどんな断面を補強したのかなどの断面構造を 調べるのは、保存書類を調べることになります。
 右端図のように、必要な情報が分かっているのは、近年の仕事だけです。 これにしても、3次元データで、連続した堤防の状況はまだほとんどの堤防は 確認できません。 いま、国土交通省では、ようやく堤防データの標準化、構造化による3次元データ化を進めています。 この3次元の堤防データが格納でき るデータバースが整備され、データが格納され、運用されるようになれば、誰もが、自分の生命、財産を守っている堤防の情況を確認できるようになります。  しかしこれは容易にできるなことではありません。

 一目で、ここの堤防の築造年次、その横断面図や土質状態が分かるようにはなっていないのには、理由があります。
 我が国の堤防は、日本書紀、仁徳11年の記事に、「天皇は、洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた」とあるようにその 歴史は古く、私たちの祖先は努力を欠かさず、少しづつ盛り土をかさ上げした形が、今見られる形状です。

 

 

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流域は巨大な水質浄化施設

地上に降った雨は水蒸気となり、また地表、地下を流れて海にいたることはだれでも知っていることです。

しかし流域を流れ下る過程で植物を育て、地下を流れると岩石を溶かし、また人間の活動に役立て、その結果汚染された水を分解するなどの様々な作用と流下過程があることを、私は全く自覚しませんでした。水といえば毎日くみ上げる井戸水と川を流れる表流水だけが意識のすべてでした。 生物学や化学、地質学などの基礎的な勉強を全くしてこなかったことではありましたが、私には想像力がもともとなかったのです。
 こんな私が、人の社会活動の結果汚れた水が、部分的な下水道浄化施設という手段を超えて、流域への意識が表流水、地下水など3次元に広がり、質的にも、水質の分解変化などに意識が広がったのはもう50歳を超えた時期になってしまいました。

 1,水質を浄化する曝気付礫間接触酸化法との出会い、江戸川
 江戸川は、東京都の金町浄水場をはじめ、新三郷浄水場(埼玉県)、古ヶ崎浄水場、栗山浄水場(千葉県)の一都2県の浄水場上水道源水を供給し ている河川ですが、人口急増に下水道などの整備が追い付かず、多量の生活排水が流入したことと、地盤の低い地域で水が滞留することで、植物プランクトンの 異常発生などでかび臭も発生していました。
  このため、主な汚濁水の発生源河川である坂川を浄水場群の取水口下流にバイパスさせる計画を事業化し、平成4年(1992)7月に、江戸川工事事務所 に赴任した時には、計画はすでに作成済みで、バイパス工事がまさに始まろうとしていた時期に当たります。 この状況はこのホームページ「白い水、黒い水ー 上水道用水源水の取水場所

選択ー」で紹介しました。

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 古ヶ崎浄化施設全景ここでは、バイパス水路の入り口に設けた「古ヶ崎浄化施設」の話です。 バイパスさせようとする水 はいったん浄化する必要がありました。堤防の内側を流 れる河川をバイパス水路に使うためと、塩水を遮断している行徳可動堰の湛水範囲に再流入させる影響を緩和するためです。 古ヶ崎浄化施設は、水質を浄化す る「曝気付礫間接触酸化法」を活用した浄化施設でした。

 こ の施設は、高水敷の下に入っていますので、その存在は視認できません。 そのため第一浄化槽に地下観察室を作りました。 これにはもう一つの考えがありま した。 この後に説明する「流域という単位で、自然には浄化機能が備わっているのだ」ということの ショーウインドウになると考えたからです。
 ハイヒールで入れて、2時間をかけて分解が進む 状況が順次観察できます。  
この観察室を見学するためには、江戸川河川事務所に問い合わせしてみてください

浄化施設から続く高水敷を流れる水路は、もう松戸市民にとって見慣れた風景になった人工の小川です。
 
 このページの図は江戸川河川事務所発行のパンフレットを利用しています。


2, 曝気付礫間接触酸化法を利用した水質浄化施設は、砂利槽を2時間流れるだけで、薬品も使わず水質が浄化される
 私はそれまで、酸化分解という作用のことはよく知りませんでした。 硝化作用も含めて、この種の基礎知識がほとんどありませんでした。 浄化施 設の構造 とその効果予測を聞いたときは、そんなに短時間で、浄化ができるのかと驚きました。
 当時の江戸川工事事務所が発行したパンフレットには、浄化効果は以下のように紹介しています
      BOD 23mg/l   → 5.7mg/l
SS 24mg/l   → 9.1mg/l                  
アンモニア 7.6/lmg  → 2.2/l
2-MIB 0.55μg /l → 0.22μg /l ( 2-メチルイソボルネオールはかび臭の原因物質、水道用水での快適水質項目の目標値は、粉末活
性炭処理の場合 「0.02μg/リットル以下とされている)
分解説明図
 このパンフレットではmg/lで表していますが、環境基準などはppmで表示していますので相関が分かりにくいと思います。 mg/lは質量の単位で、 ppmは濃度の単位と性質は異なりますが、どうも10mg/lは10ppmと理解して差し支えなさそうです。 河川水質の環境基準では、A類型ではBOD は2ppm以下とされていましたので、当時の坂川は相当な汚濁だったことが分かります。 
 私は、坂川から流れ出た水が、どのように流れてゆくのかを観察したことがあります。 色の違う水は、まじりあうことなく、金町の取水塔を直撃していまし た。  水質のデータを見るとき、どのような位置で採取して、その場所と深さは前断面からみて、どのような特性を持つのかを検証しなければならないことを 知りました。

 ところでこれらの浄化槽では、酸化分解がおこなわれるに従って、次第に泥がたまります。 そこでは嫌気分解も行われているのではないかと想像しました。  
 酸化分解と嫌気分解があると教わった今でも、私が現象を確認したことではないため、自信を持てないまま、今に至っています。
 これらの作用の実感を持つためには、分解の状況を可視化したり、論文等で確かなものにしていただけ る研究者の出現を今も心待ちにしています。  
 
3、自然の浄化機能を流域全体で発揮させるためには
 河川管理者が設置したこの種の酸化分解施設は、昭和56年から58年にかけて建設した多摩川の野川合流点の野川浄化施設を手始めに、ーストワン を長く続けた綾瀬川、淀川など限られた場所に作られ、いまも稼動しています。 しかし現在では水質全体が改善されたこともあって、注目されることは少なく なりました。
 
 この仕組みを知った時に思ったことは、自然は流域全域で浄化機能が働く仕組みをもっているのだと 思ったことです。 それから少しづつ調べ始めました。 次第に分かってきたことは、酸化分解が活発に働くためには、分解に寄与する接触面が多いほど良いと いう簡単なことで、古ヶ崎の施設も気泡が沢山あるように加工した「じゃりっこ」という製品を使いました。 コンクリートの四角い水路を流れる流水では、接 触面が少ないので浄化効果は少なく、法面や川底が土砂や草が繁茂している水路は、接触面が大きいので、分解が盛んという実験レポートも見ました。

 脱窒そのような目で、 河川を見始めました。 速く流れるコンクリートの水路や、最近本川の河床が下がっている支川の合流地点では段落ち状態で合流している状態では浄化能力は劣 化したとか、やっぱり水深の浅い草が生えた土水路が良い、などと思うようになりました。
 また、アンモニアを分解するためには、貯留、滞留する場所が必要で、ここから地下へ浸透することによって、嫌気分解が行われ、「硝化」作用が働くことも 教わり、流水が滞留する自然が作り出した場所も、大切な空間だと思うようになりました。

 4、自然の状態での酸化分解や嫌気分解の程度が分かるか
 浄化槽という境界条件が設定できる装置の中では、途中の状態はともかく浄化効果は測定できますが、これが解放空間(つまり河川の中を流れる流 水)が、どの程度分解しているかに関しての論文は、株式会社日水コンの渡辺吉男さんに教えていただいたところでは、たった一つでした。 現在東京都 市大学教授の長岡裕先生が、1986年に「水質汚濁研究」で発表された「暦で構成された河床における生物的自浄作用」がそれですが、実験装置は極 めて小規模なものです。 

 下水道の浄化施設の出口までは多くの研究がなされているのに、なぜ、いったんフィールドに出ると、途端に研究が敬遠されているのかについては、思い当た ることがあります。 それは境界条件の問題と、実験結果が大がかりかつ長期にわたり、実験フィールドが洪水などで攪乱されるなど研究成果が得にくいのでは ないかと思うのです。 だからこそ、河川管理者の研究支援が必要と思うのです。 私は長岡先生のご指導を受けて、スポンサーを探して、これに取り組もうと していましたが、時間切れになり果たすことが出来ませんでした。
 
 自然の河川流路では、どのような分解作用がなされているのか、どんな形の水路 が、またどんな河床材料を通過したら浄化効果が多くなるのか、どのような場所で効果が大きいのか、日本全国にわたる大きな河川から小さい水路に至 るまで、浄化機能がどのように発揮されている状況は誰もわかりません。 これが分かれば、河川の修復時には、目標が立てられるし、事業化も道も開けます。

 水質測定は、点での限られた水質測定が行われていますが、これらを解明でき る連続した 測定はされていないのです。

5、自然の浄化機能を知り、それを河川の管理に生かす
 今、特に気になっているのは、河原が消えたことです。河原がなくなって、浅い平瀬の川が増えたのではないかと思っております。 土炭がむき出し の川も見られるようになりました。 

 河川の土砂収支(いくら流れ出して、いくらたまって、いくらが海へ流出したか)については、別項を設けて考えることとして、ひとまず終わります。 ここ では、もう貴重になった砂利や砂礫を意識し、それを水質浄化というテーマとどのようにマッチングさすのかということを考えたいと思うのです。 河川内の砂利層の浄化機能を意識した河川管理を考えたいのです。

「多自然川づくり」が死語になる日

「多自然川づくり」は、ネットを検索すると様々な事例や取組、考え方などを探すには苦労しない時代になりましたが 、私の記事はその創成期に見聞きした話を書いています。 

 いうまでもなく、河川工事は「建設産業」であり「理念」が理解できたとしても、コストや耐久性、材料の入手、施工技術、産業波及効果など様々な制約が横たわっており、そのことを理由にして、本質の追及がおろそかになり、都合の良い解釈で満足する恐れは多く、私が見るところ、どうかと思う事例には枚挙にいとまがありません。 こんな状況を憂いて、この記事を書いています。

 

「天空の川」、「大地の川」を著し、活躍の真っただ中で夭折した河川技術者の話

1、この項を書くにあたって-関正和さんのこと-
 「多自然型川づくり」は、関正和さんが主導しました。 私は関さんが多自然型川づくりに目を向け始めたころのことは、あまり詳しく ありません。 その当時のことは、関さんが書かれた「大地の川 甦れ、日本のふるさとの川」草思社ー平成6年10月(1994) に動機が書かれています。 Amazonで検索する と、新品も中古本も手に入る様子ですので、同時に出された「天空の川 ガンに出会った河川技術者の日々」と合わせて読んでいただくと、関さんが、どんな所で育って、どのような経験をして、どんな思 いで何を追究し ようとしていたかが分かります。

関さんが初めて現場に出たのは 、四万十川を管理する渡川工事事務所の調査課長が振り出しでした。 それまでは土木研究所のシステム研究室勤務でした。  その後四国地方建設局の河川計 画課長、治水課の課長補佐、琵琶湖河川事務所長を経て、昭和62年(1987)に新たに設置されたばかりの「財団法人リバーフロント整備センター」に出向したことが、多自然型川づくりに本格的に取り組む,直接のきっか けになったことを、「大地の川」で知りました。 
 当時のリバーフロント整備センターは、新進気鋭のメンバーが集められ、これまで河川局が手掛けてなかった「河川と生物環境」「川と街づくり」「舟運」な どの新しい課題の研究をスタートさせていました。 関さんはそこで伸び伸びと研究されていた様子を私は知っています。 設立当時のリバーフロント整備センターには人材が集められ、 いつ尋ねても若々しい熱気に包まれていました。
 
 関さんが河川とどう付き合うかを語ったもう一つの記録があります。 関さんが建設省河川局河川環境対策室長当時、NHKのラジオ談話室に平成6年(1994)5月2日から6日までの5日連 続で出演した 時の対談を、当時の財団法人リバーフロント整備センターで印刷したものが私の手元に残っています。 ご興味がある方は、ご連絡いただければコピーを送信します。
  お相手はNHKのチーフアナウンサーの横山義恭さんで、ゆったりと関さんの話を引き出し、関さんの子供の頃の川の記憶や、日本の社会が太古から付き合ってきた歴史を語り、ようやく治水、利水に加えて環境も重視し始め た話までが、興味深く収録されています。
 
2、多自然型川づくりを推進した動機と社会背景
NHK-radio  多自然型川づくりに目を向けるようになったきっかけは、「大地の川」に書かれています。 リバーフロント整備センター時代に、「愛媛の小田川で活動されていた亀岡さんや福留さんに出会い、ヨーロッパの川づくりを紹介された」ことが直接のきっかけと書かれています。

 関さんがリバーフロント整備センター勤務を終えて、河川局治水課の専門官に転じた平成2年(1990)は、 長年続いた好景気が下り坂になり始めた頃で、社会も不安を感じ始めていた、そんな時代でした。 高度経済成長時代から続く都市への人口集中、大規模な都市 改造、田舎では大規模な圃場整備が行われ日本の風景が一変した時代が、ようやく終わる兆しが見えた時代でした。 今では失われた20年の始まりと位置付 けられています。

 社会の不満は河川管理者に向けられました。 河川局は川をコンクリートだらけにしていると。
 社会は環境にようやく関心が向き、知床の自然保護運動が収束した後、平成元年(1989)年頃当時はもう今では想像がつかないほ どの長良川河口堰反対運動が始まっていました。 連日報道されないことがない日はありませんでした。 マスコミの扇動は明らかでしたが、社会の感じ方は、 高度経済成長時代を過ぎてみると、都会では確かに川はコンクリートで覆われ、また都市計画の中で川は埋められ、緑が急速に失われていた事を背景に、マスコミ報道に追随する理由は私なりには理解できた時代でした。 

 こんな時期の平成2年(1990)河川局の治水課建設専門官という事業計画を直接指揮できる絶好の ポストに就任した関正和さんが、満を持して、「多自然型川づくり実施要領」という、自然の機能を重視した川づくりに方向変換する画期的な通達(河川局の治水課長 をはじめ関係課長が連名)を出したことは、極めて大きな河川行政の転換でした。 
 これまでの河川行政の中で、ビジョンを示したのは初めてです。 またこの通達は、意識の共有を図ったことも画期的でした。 これまでは、河川砂防技術基準が技術水準を確保するものだけでしたが、河川整備の思想を示したことは歴史的にも初めてだと思います。 画期的な通達でした。

 「多自然型川づくり実施要領」は、行 政の方向性を示したもので、技術指針ではなく、「川づくりの理念、方向」を示したものと理解しています。 当時の河川砂防技術基準(案)には、この種の技術基準の記載はあ りません。 平成9年の河川法改正に伴い、河川砂防技術基準(案)において「河道は多自然型川づくりを基本として計画する」ことがようやく位置づけられました。

 この要領の目指す姿勢は社会に受け入れられました。 
 以下はその全文です。 護岸だけではなく、あるべき川の全体にまで視線は及んでいることが確認できます。

 

3、多自然型川づくりが発表された時に考えたこと
 ヨーロッパで自然素材を利用した工法が採用されているという情報は、日本の社会にとっては、インパクトがありました。  これを「多自然型川づくり」という方向性を打ち出したことで、コンクリート一辺倒との批判を受けていた河川局のイメージを変え始めた効果は、絶大で あったことには私も素直に良いことをされたと思っておりました。 ヨーロッパから紹介された自然素材を生かす河岸防御工法は、それはそれで有益な方向性とは思いましたが、私は別に目新しさは感じ ませんでした。日本の沈床などの河岸防御工法を子供の頃から知っていましたので、なぜ、日本で発達し、しかし次第に忘れ去られていった粗朶や柳、粗朶沈床 などの工法が紹介されないのか、研究に向かわないのかと不思議に思っていましたし、今も思い続けています。

 関正和さんが、日本の、特に明治期にデ・レイケの指導を得て、盛んに行われていた天然素材を使った高度成長期以前の工法を知りなが ら、なぜこのヨーロッパから紹介された「近自然河川工法」に強く反応したのか、私はこのことを直接聞く事はとうとう出来ませんでした。  私が近自然河川工法を勉強していることを知った時は、もう多自然型川づくりが猛然と走り出していました。 
  コンクリート漬けと言われている河川局も、技術的な裏付けが不十分な状態ながらこれを容 認する空気がありました。 科学的勉強が進んでいない中での船出であったことは、「大地の川」でも関さん自身が語っていることです。

 

4、「多自然型川づくり」に関して私が理解できたこと(愛媛の五十崎町、小田川を見て)
 河川をどのように扱うかは、地域社会にとってはもともと強い想いがあります。 これまではすべてをお役所が計画し、お役所が施工して、地元の関与 を排除していました。 多自然型川づくりの原点と言われる愛媛の五十崎町の小田川は私も現地を見ました。 運動に参加している地元の方々も加わって、玉石 を並べていていました。 標準断面をどこについても当てはめる機械的なやり方を排除し、屈曲部では内側の広い緩斜面をそのまま生かしていたことは合理的で 見習うべきものでしたが、玉石を河床に並べていたことについては理解できませんでした。石を巧みに配置するという箱庭的考えのように見えました。 どのように考え、20年たった今どのようになったのか、耐久性を含めてもう一度現地を見たいものです。
 しかし「俺たちの川は俺たちで考えて作ろう」という意気込みは十分に伝わりました。 川の設計構造への地域社会の直接参加は新鮮でした。 関正和さんはまず、ここに着目したのだと思いました、そして、工法の良し悪しはともかく、まずこのことを大切にしようと思ったのではないかと想像します。 

 役人が川づくりを独占してきたマイナス面を、地元が主体となろうという運動には一定の理解が出来ます。  提案する設計を十分地元と協議する機会を持てば、コンク リート漬けという一方的な見方は、少なくなると思います。 私はかって新潟でお百姓さんと直接話す機会があり、コンクリートの水路の評価を聞いたことがあ ります。 その農家の方は、土の水路では、草刈りや補修に人手がかかり、今ではもう田んぼの管理が出来ないと、コンクリート水路を肯定していました。 私 は多自然型の河川構造物をあらゆる機会を利用して設計すべきと思っていましたが、場所や状況によって、その場所に必要なものは何かを、一層考えるようにな りました。

  また、これは関さんも懸念されていたことですが、「多自然型川づくり」が「科学」には発展せず、「運動」のままで上滑りするのではとの危惧を感じていました。 いまの河岸防御工法の現状を見るとき、当時の危惧は残念ながらあたっています。 私がこのホームページを立ち上げた一番の理由でもあります。 その理由は一度に説明できるほど単純ではありません。 そのため、少しづつ何かが違うのです。  単に工法だけの問題ではなく、コンクリートか自然素材かではなく、日本社会が根源的に持つ、司馬遼太郎風に言えば、この国の形にかかわっている根が深い問題が内包していると思っています。

4、多自然型川づくりレビュー委員会の提言ー平成18年5月ー

 「多自然型川づくりレビュー委員会」で検索すると、国土交通省、水管理・国土保全局のページの中の「多自然型川づくりレビュー委員会」のページに行き着き、提言作業過程も確認できます。

 改めて、提言を読み直してみたが、素直に納得する内容です。 その一部を転載しますので、読んでみてください。

 (1)多自然型川づくりに対する関係者の認識
 直線的な平面形状や画一的な横断面形状ありきで、護岸工法として石等の自然の素材を使用したり、植生の回復に配慮したりさえすれば多自然型川づくりであ るとの誤解が見られる。また、多自然型川づくりといえば水際の工夫だけをいうとか、モデル事業として特定の河川のみで実施されるものであるといった誤った 認識が根強くあるなど、多自然型川づくりとは何かということが共通認識となっていない。

 (2)多自然型川づくりの技術
 ① 留意すべき事項を設計に活かす技術がないいままでの取り組みのなかで、川づくりの中で留意すべき事項が明らかになってきているが、こうした留意点をどのようにして設計に結びつければ良いのかがわからずに川づくりを行っていることが多い。
 ② 河川環境の評価ができておらず、川づくりの目標が明確になっていない河川環境の評価が行われないままに個別箇所ごとの工事を行っていることが多いため、河川の調査、工事や維持管理の目的や目標が明確になっていない。
 ③ 改変に対する環境の応答が十分科学的に解明されていない河道や流域の人為的な改変もしくは自然的なかく乱に対する影響が科学的に解明されていないため、その影響の回避や低減を図る技術が確立されていない。

 (3)多自然型川づくりの制度・仕組み
 ① 多自然型川づくりの現場担当者を支援するための仕組みが十分でない
 各地で実践されている多自然型川づくりの現場からの情報、経験や最新の知見が共有されていない。また、現場の担当者が、各分野の専門家等から適切なアドバイスを受けられるような仕組みが十分に整備されていない。
 ② 多自然型川づくりの評価の仕組みがない
 川づくりの目標を定め、それを具体化していく過程において、河川行政や学識者、市民等、さまざまな視点から現在の河川環境や川づくりの結果を評価し、その結果を共有して川づくりの実施や改善に結びつけていくための仕組みがない。
 ③ 多自然型川づくりの実施体制が不十分である
 計画、設計、施工、維持管理の各段階において多自然型川づくりの方針を決定し共有するプロセスが明確でない。また、事前・事後の調査や順応的管理が十分に実施されていない。

 この指摘は、要するに「多自然型川づくり」を的確に実施する基盤が出来ていないことを指摘しているのです。 そかし改善の方法を考えて、実行するのは、それは私たち技術者の役目です。 頑張りましょう。 一人からでもできることはあります。

 

5、好ましい川の設計が出来難い理由

  私の30歳台までの期間は、管理区間全体の改修計画をいつも議論していました。 昭和28年に策定した総体計画の後を引き継ぎ、昭 和35年には5か年計画、長期計画、治水水系計画、昭和40年の河川法の改正から始まる改修計画策定まで、ひっきりなしに、日本国中で河川計画全体を議論 した時代でした。 ここを掘削すると、水位はこんなに変動するなどは、手計算を していました。 四国のそのころは、コンサルタントという存在は知りませんでした。 自ら計算し、2千5百分の一の平面図に法線を書き入れ、横断面図を作 成していました。 堤防も、護岸も、樋門も、橋梁も、みんな自分たちがやっていました。
 川の計画づくりにどっぷりつかっていた時代です。

 しかし、今の技術者は、じっくりと上流から下流までについて、平面、縦断、横断計画を見直すことは、なかなか機会が与えられていないのではないかと思い ます。 河川管理者がそうであれば、発注された仕様に基づき、河岸構造物を設計するコンサルタントの技術者にとっては、なおさらなことです。 勉強する機 会も殆ど与えられず、上下流の情報、被災の状況、過去の風景、改修工事の履歴など、必要な情報に接しないまま標準断面が出来上がり、発注者との打ち合わせ (係長、係員どまり)で、OKをもらい、それが成果品になるというあわただしい仕事が一般的です。
  これでは、考える機会が少なくなるのは否めず、多自然型川づくりレビュー委員会の指摘も、なかなか解決には向かいません。 
 
 ・ そんな状況ですから、まずは考えるフィールドが与えられていないことが原因にあると思います。 フィールドがあり、そこにデータがあり、そして課題が見えるというものだと思います、一般論はわかっても、からは脱皮できません。

 ・ その次には、川にじっくり取り組む時間が与えられていません、2 年程度の期間で人事異動がなされる状況では、勉強できる時間は少ないのです。 それをまたコンサルタントに発注するのですから、川の ことを分かっている人が少なくなるのは当たり前です。 私たちが育った時代は5~6年は同じポストにいることが一般的でした。 そこから数々のリーダーが生まれました。 いまの人事異動の仕組みでは、河川のインハウスエンジニア―は育ち難いと思います。

 ・ 日本には各地に土木の大学があります。 インハウスエンジニア―に一定の力が付けばという前提ですが、地元の大学と一緒になって研究する課題は、私 の中にはたくさん思い浮かびます。 これが実現するためには、大学の支援を得て、河川管理者が本当に困っている課題を共同で勉 強する仕組みが作られることでしょう。 
  しかし、このことがうまくいっていない理由には、まずはインハウスエンジニア―の立場にある河川管理者が、取り組むべき課題を発見していないという現状です。 大学の先生に届いている情報は少ないと思います。 また、課題を持ちかけても、研究者が自分の研究の枠組みの外に踏み出すためには、研究に値する論文が書けるなどの、十分な魅力がなければうまくゆきません。

 つまりは今の仕事、研究の枠組みのままででは、土木の停滞は払拭できません。 仕事の仕組みを変えるしかありません。


6、何から手を付けるか
 現在の仕事の仕組みをいきなりは変えられません。 そこで、少しづつ変化が期待できる方法を、乱暴ですが考えました。

 その一つ目は「競争」を促すものであり、もう一つは社会から勝手に「評価する」する仕組みがあることで、とかくクローズしがちなこの社会に、当事者間へ「緊張感」を持ち込むことが必要ではないかとの観点から考えたものです。

 ① 幾つかの設計競争の仕組みを作るーフィールドと所有するデータを河川管理者が提供し、設計競争を企画し、優秀企画を実施に採    用する
  大学対抗コンペは、韓国などで行われ、成果を上げていると聞きます。 フィールドとテーマを大学が各自選択する方法もあるし、ある河川を対象にして、課題を与えたコンペも考えられます。 その効用はマニュアルを離れて現実のフィールドで「考える」ことと「競争」によって、停滞した現状を改善しようとするものです。 
  コンサルタント、大学等を対象に、ある河川の、比較的広い範囲の流域を特定し、課題を設定して「設計競争」を募集し、採用案を調達(対価を支払う)する。 成果は実際の計画、施工に繋げると、参加者には元気が出ます。

 この方法の成功のカギは、合理的で、かつ具体的な「評価基準」があらかじめ、整備されてあることが必要です。 評価基準を事前に公表すしても良いでしょう。 評価する組織は「評価基準」を作成して、合否を判定し、情報はすべて開示することが発展のカギです。 この作業を通じて、インハウスエンジニア―の技術向上が期待できます。 また一連の情報が開示されれば、お役所以外の組織が独自の「評価基準」により、改善提案を出せる競争環境も整って、役所もうかうかできない環境が生まれます。 こま切れ発注の弊害も解消できます。

 また、CommonMPが提供できたことで、計算や、GISエンジンの利用が可能となり、このような同一条件での企画が実現できる基盤が整ったことを、意識していただきたいものです。

 ② 評価集団を結成する、評価基準を作る
  客観的で、かつ合理的な「評価」をするこ とはなかなか難しいものです。 技術評価はこれまでも各種行われているが、あまり成功していません。  その理由は、一般には公的組織が評価機関になる例 が多いのですが、明快な判定基準がある場合を除き、公的組織には際立った評価を下しに くい立場があります。 何より、評価するための明快な「評価基準」を持つ必要があります。 この評価基準づくりには力量が必要です。

 他の産業には、「格付け会社」が存在し、その評価はさまざまあるものの、社会からは大方の評価を獲得している現状がありますが、河川土木業務格付け会社が出現してはどうかと思うのです。 資料はお役所の発表資料と、独自の現地調査等です。

 私はかねてより、お役所に属さない「評価集団」を作らなければ、技術が進歩しにくいと考えていた。 特に河川土木の 社会は、コンサルタント業界、建設業界、土木材料業界、学会、お役所ともに、特段の変化を期待する動きは私には見えません。 他の業界のような、厳しいアイディア競争は現状の仕組みのままでは望めないと思うのです。
 そこで「評価する」事を事業とする会社か、NPO法人が出現したらよいのではないかと永年考えていました。

 さて、この「評価集団」は、判定する者の人選もさることながら、「評価基準」の出来、不出来が成果のカギを握ります。 私はこの評価基準のたたき台を作りたいと考えています。

 二つ目は、やはり発注権限を持つ、河川管理者が頑張ることです。 
 ① 地方で考える
  考える活力は地方にあることを、私は疑いません。 課題に直接触れることが出来るからです。 役人の力が為dされているからです。 何も工夫しないならば、役人の必要性は薄らぎます。
 本当の耐久性のある施設、地場産業とともに歩む設計、CO2が最低となる設計、ライフサイクルコストに優れた設計、その場にふさわしい景観など、各地方ごとに採用する設計は変わってくるはずです。 マニュアルは最低基準であることを知り、実行することです。

 ② 中央では、会計検査院の理解と科学的裏付けの研究が欠かせない
  役人は、会計検査での指摘を恐れます。 私もそうでした。 しかし、会計検査院の理解をもっと得る機会を持つべきだとは永年思ってきました が、高度経済成長時代には、そのような雰囲気ではありませんでした。 しかし今は、社会も落ち着き、環境にも理解が広がり、価値観も多様化してきました。  会計検査院は、事前にOKを与える組織ではありません、出来上がったものを、社会の規範に照らしてチェックする機関ですから、作る方としてはリスクがあ ります。 そのリスクを回避するためにも、地域での合意形成は欠かせません。

 私の経験では、会計検査院は良く物事を考えてくれます。 独善は許されませんが、議論には答えてくれると信じています。 ここを突破しないと良い設計は提案できません。 そのための理論武装は、河川管理者の役目です。 地方では、これにはなかなか対応できません

 三つ目は、業界が社会に目を向けることです
 私は新潟勤務の折に、世界で一番歴史がある鮭の養殖で有名な三面川村上市)で鮭の利益の一部を、江戸時代から人材育成に充てたことを知りました。 こうして学問を納めた藩士を「鮭の子」と呼んだそうです。 
 日本の産業界では、利益を社会に還元する試みが良く紹介されていますが、土木系で社会貢献をしている例を不明にしてあまり知りません。 日本中の田舎の 砂利を採取し、川の形が変わるほどにしたのに、川や地元へ還元した話は聞きません。 政治献金の話は新聞に載りますが、社会還元の話は聞きません。  土木の世界が社会からは格別政治と結びつく産業であるというレッテルは、社会還元のなさも一つの理由です。 土木の財源は税金ですから、納税者に理解を得ることは、すべての部署、すべての段階で必要なことです。

 かって、高度経済成長期の終わりに「河川整備基金」が河川敷ゴルフ場の利用者、発電をしている電力業界などから寄付を募り、この資金を使った公益事業が 存在し、河川環境や河川の減災研究に使われていますが、この時も、土木業界の反応はさびしいものだったと風の便りに聞きました。

 社会の支持のない産業は発展しません。 今は「水」にようやく目が向こうとしていますが、収奪するだけではなく、流域社会に向かって利益還元を意識する ことは、今からでも、いつからでもできる事ではないかと思うのです。 土木の意義は、分かりにくいものです。あらゆる機会を とらえて社会の理解を得る機会の一つに、社会還元はなくてはならないものです。
 土木の仕事に関係のない一般社会に対しての利益還元も、今出来ていないことの一つです。

 

7、「多自然型川づくり」が死語になる日
  今では「多自然川型づくり」という名前は、「多自然川づくり」と名前を変えて推進されています。 関正和さんが願った、この言葉が死語になる日はこのままでは今だ遠しですが、 要するに 自然がもともと備えている自浄作用や、地層、地質、地形や気象などが醸し出す河相を理解し、自然の力を最大限に引き出し、物理に従い設計し、河川管理に反映させるようになれば、もうそこにはゴールが見えるはずと思っています。

 頑張りましょう! 頑張らない生物が生き残ってないことは、生物社会が教えるところです。

未曾有、これまで経験しなかったという災害の正体

 今年は、地震や水害、がけ崩れなどの自然災害が多い年になりました。しかし、これらの現象が起きる確率は、歴史の記録が近年少しづつ知られるようになったので、未曾有ということではなく周期的に起こりうるのだと知る人が多くなったような気がします。

 私が初めて実感した山崩れは、当時の国産旅客機YS11で北海道から高知まで飛んで列島山脈を延々と眺めた時です。 当時はプレートテクニクス論がまだ一般的に知られてない時期でしたが、褶曲された四国山脈を実感し、平原であったであろう本州の地形が隆起したり、それが降雨や地震によってによって山腹が削られまたは崩壊山と谷が作られ、長い年月を経た山脈地形が出来上がっているといった、今では常識的なことを確認したことです。

 そのころから、どんな山も崩れるもの、人間が築造した堤防などの人工構造物は、一定の限界があることを知りました。 四国高知の名所である地層がでんぐり返っている海岸地形を見れば、過去にどんな地殻変動があったかを実感できます。

 田宮虎彦が語った、「災害は忘れたころにやってくる」という言葉は、歴史の中では起きるのが必然といっているのです。

 私たちが、これに備える方法は、手に入る情報を手に入れ、まずは自分なりに判断、行動するしか方法がありません。 国や地方自治体は、今、実施可能な方法で対策などに動いているにすぎず、安全を保障するものではないことを知ることと思います。

堤防という構造物を知ろう(その1)

 日本の河川の堤防のほとんどは、その河川に堆積した土砂で作られています。 稲作の始まりが、堤防の起源といっても間違いはなさそうです。

 もう自然地形の一部となって、人々の関心は薄れていますが、いったん洪水で破堤すると、被害の大きさでその存在に気付かされます。

 そんな堤防は、いつ、どんな材料で、どんな施工法で作られたかは、ほとんど知られていません。

 歴史上に堤防の記述が初めて登場するのは、『日本書紀仁徳天皇11年10月の記事に、「天皇は、北の河の澇(こみ)を防がむとして茨田堤を築く(天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた)」との記述(wikipedhiaから引用)があるのが最初です。

 これらの堤防をどのようにして作ったかは、私なりに容易に想像できます。

 人工的な構造物が作られていない時代、川岸には水に強い柳や竹藪が生えていたことでしょう。そこには洪水のたびに土砂や泥、ごみが堆積し、次第に小高く連続して小高い「自然堤防」が形成されていったことは容易に想像できます。 茨田(まんだ)の堤もこのような自然地形を利用して、周りの土砂を人が鍬で掻き揚げ、もっこで運んだことでしょう。 

 この方法はその規模はともかく、近代まで堤防を作る方法は進化していません。 土砂を遠くに運ぶ方法は、江戸時代は船で、明治にはようやく一部の直轄事業で掘削機械と小規模な機関車とトロッコが使えるようになり、パワーショベルとダンプトラックがふんだんに使えるようになったのは昭和35年ごろから始まった高度経済成長じだいからでした。

 私たちが目にする堤防の原型は、土の運搬距離が短い前面の土砂を利用した「掻き揚げ堤防」なのです。

住民に情報を出すことが河川を管理する者の責務

 住民自身が日ごろ 川 にかかわられなくなった結果?

 現在では、今住んでいる場所は水害から堤防で守られていると、多くの人は安心して暮らしています。 その安心の根拠には、専門の役所、河川管理者が日常的に対応しているはず、というごく自然な信頼があると思います。 昔は「治水」は為政者の基本的な仕事でしたが、現代では誰もが多様な課題に対応していて、社会の関心が常時治水にないことには無理がありません。

 治水の知識は、今のように情報のない江戸時代以前には、住民こそが治水のプロフェッショナルでした。

 住民が治水に希薄になったのは産業構造の変化です。土着してそこで暮らす住民が少なくなり、水防団などの自治組織が機能しなくなったのです。 また、明治時代以降、大きな治水工事が進むにつれて、安心感が広がり、その結果治水の住民の危機感が希薄になったということにも原因があります。

 しかし、どんなに社会の変化があろうと、住民が治水の主役であることには変わりがありません。国や地方自治体が根本的な防災施設を作り終えていると考えるのは幻想です。 全国のどの河川でも、お役所は投入できる財源を限度として、今できる最小限度の対策をしている(あるいはその途上)にすぎません。山崩れや高潮、洪水など、急峻な山地と沖積平野に住居を置くわが日本の永遠の宿命です。

  そんな当たり前のことは、高度経済成長以前の人なら誰でも知っていました。 

 川という自然が、恩恵と厄災両方を併せ持つことを、毎日の生活の中で日々実感していた時代は常識でしたが、いまは専門の河川管理者という組織が運営されるようになったので、このことを忘れがちになることは、無理がないと思うのです。

 それだけに、住民一人一人が、水害という自然現象とその防御能力の程度を日ごろから学習することが必要ですが、なかなか出来ないこととは思います。

 いざの時、お役所は頼りにはなりません。 水害は火災のように場所が特定できなく、それこそ一帯で同時に起きます。 お手上げです。 

 お各所は日ごろから住民に情報を出す、住民はそれを知って自衛する、こんな関係が大事と思うのです。

 

今では浸水地形などの情報は手に入る

 国や県、市町村では、「洪水浸水予想図」を作成、配布しています。役場や、国土交通省の河川事務所に問い合わせると、手に入ります。 

 また、自分の住んでいる土地が、昔はどんな土地だったのかがわかる地図も公表されていてインターネットで手に入ります。 国土地理院発行の「治水地形分類図」です。 これを見ると今は埋め立てられている昔の川跡や、しっかりした地盤かどうかなどが確認できます。 

http://www.gsi.go.jp/bousaichiri/fc_list_b.htmll