昭和、平成時代の河川管理現場で体験したこと

見聞きしたこと、考えたこと、出来なかったことを伝えたい

破堤の現場

破堤寸前の現場

 昭和29年(1954)9月の12号台風洪水で、四国、徳島、吉野川堤防の破堤をかろうじてま逃れた現場にいました。 私は当時中学生でした。

 好奇心に駆られ堤防に到着した時、多くの水防団員は殺気立って、懸命に土俵を裏法の小段に積み上げる作業をしていました。 堤防はすでに水圧で膨らんでいて、ぶよぶろの状態でした、そこへ土俵を積み上げていました。土俵を積み上げていった場所は、堤防が締まった状態になり、効果があることがわかりました。

 河川管理の仕事を経験出来た今、当時を思い出して思うことは、いつ破堤してもおかしくない状態を見たのだと思います。

 そのとき上流の堤防を見ると、通信のために立ててあった電柱が次第に倒れてゆく(浮き上がって)のが見えました。洪水の水位が高くなり、その継続時間が永く続くと、堤防が膨れあがり、ついには破堤になる様の一歩手前を見たことになります。後で考えると、私が現場に着いたときは洪水のピーク付近らしく、水位が下がって来て喜んでいましたが、対岸が破堤したので下がったのではないかなどと話し合っていましたが、後でわかったことは、水防活動中が洪水のピークで、その後は次第に水位が下がったので、かろうじて破堤をま逃れたのだとわかりました。

 写真はこの洪水のあと、堤防裏法尻近くに空いた漏水跡の写真で、いたるところにこのような跡が見られたと多くの人から聞きました。

 土俵づくりに使った土は、私たちの中学校の校庭を掘ったもので、大きい掘削跡は卒業までは埋まらなかったことを思い出します。