昭和、平成時代の河川管理現場で体験したこと

見聞きしたこと、考えたこと、出来なかったことを伝えたい

香川県の土器川がなぜ礫河川なのか? NHKスペシャル列島誕生ジオジャパンで説明された

 その河川がどのような性質を持つ川か、どんな成因を経た流域なのかを知ることは河川を管理するためには欠かせない基本的な知識といえるが、昭和の30年代にはまだよくわからなかった。 

 四国の地質図は、当時高知大学教授の甲藤次郎先生がまとめていて、たびたびご指導をいただいていたが、プレートテクニクス論はまだよくわかっていないと話されていた時代だ。 

 ところが最近NHKスペシャル「列島誕生 ジオジャパン」で日本列島の成因の研究成果を聞いて、永年の疑問が少しだけ溶けた思いだ。 

 四国で育った私には、なぜ太平洋側の山地が鋸切状にとがった形状をしているのか、高知の海岸の地層がでんぐりかえっていることや、四万十川が河口と上流河道の位置が近い不思議な形をしているのか、高知に良質の石灰岩が産出されるのか、吉野川と紀ノ川が形が似ているのかなど、多くの知りたいことを抱えて過ごしてきた

過様プレートテクニクス理論が、日本列島の形を作ったことはようやく、私たちにもわかるようになった来た。

 

 土器川は直轄河川になったのは昭和40年の新河川法制定時で、最も遅い時期の直轄河川化であった。

 当時は香川県管理河川であったので、私を含めてどの程度の事業規模なのかを急ぎ調査し直轄化に間に合わせたが、初めて見る土器川はどこが河道かがわからないぐらい礫が渦高く堆積し、その中を水が細々と流れている様は、阿讃山系を水源に持つ河川としては異様な河相をしていた。 流域は表流水は少なく、多くが伏流して流れ、ところどころに「出水」という伏流水の湧き水が出現していた。 

 こんな礫河川の発生源はどこかと、河川を遡上ってみたが、それらしい様相がなく、不思議のまま現在までに至っていた。

 

 ジオジャパンでは、中央構造線が動き、その際大歩危小歩危を形成している緑泥片岩層を流れる吉野川上流の流末は、もともとは土器川であった。 それが中央構造線の移動(ずれ)によって今の吉野川につけ変わった、その証拠は土器川で「青石ー緑泥片岩」が見つかったことを証拠の一つとしている。

 永年の疑問が一つ溶けた。